2012/04/24

花も色あせ姥桜

雑誌をめくると断崖絶壁の写真が迫ってきた。
人を寄せつけるとも思えない鋭く屹立した岩の、わずかに出張った肩に、鳥が舞い降りたようにその寺院はあった。
白い壁。黄金の塔。

ヒマラヤに抱かれた小王国。
極彩色の異様なチベット仏教を信じる信仰の国。
彼女が生まれたころにやっと貨幣経済を導入したというド田舎の国。
1970年代まで鎖国していた神秘の国。
手つかずの自然が残る宝石のような国。

女子高生は震える指で頁をつかみ、私はいつかここへ行くかもしれない、いや行くだろう、と考えていた。

航空会社の季刊誌だったような気がする。おそらくそれが日本で初めてメジャーなメディアで取り上げられたブータンであったろう。


次の年か、その次の年か。
女子高生は花も恥じらう年頃の娘になった。『ブルータス』誌がブータン特集を組んだので、素早く飛びついた。


『ブルータス』1987年

・・・・・・・。
男性のソレといえば風呂上りに全裸で走り回る弟のしか見たことのなかったおぼこい娘は、汗ばんだ指で頁をつかみ、ぜひともここへ行かねばなるまい、と考えていた。
「なぜ?なぜソレの絵なの?あたしはそのわけを人々に尋ねることができるかしら?」

おだやかな国民性。女が家を継ぐ母系制。話し合いで解決する直接民主主義。当時の国王(2006年に退位)がイケメンで超優秀。
極彩色のお祭りがある。坊さんがぴょんぴょこ飛び跳ねる。夜這いの風習が残っている。限られた数の観光客だけ受け入れて文化を守っている。

いま考えるといくつかの誤りがあったのだが、さまざまな情報を得て、
桃源郷のイメージは着実にふくらんでいった。

関係ないけどウチの梅



娘は旅行好きだった祖父に似て、旅を好む大人になった。
一人で日本各地へ。そして1960年代のヒッピームーブメントに次ぐ第2のアジア地域ブームに乗って海外へと出かけていった。
ブータンはいつも心の隅にあった。だが心身虚弱で満足に稼げない貧しい女には、敷居が高すぎた。
政府が定めたとんでもなく高い公定料金を払わねば入国させてもらえない。例えば飛行機代を含めて総予算が20万円あるなら、他のアジア地域なら1週間以上余裕でいられるが、ブータンには3日ほどしかいられない。それでは何も見たことにならないというのが、彼女の価値観であった。


時間をかけて、かの国への恋は熟成し、彼女の中でブータンは桃源郷から、確固とした信念を持つ理想国家へと姿を変えていた。
「GNPよりGNH(Gross National Happiness─国民総幸福量)」。
経済発展より民の幸せを重視する考え方。

ブータンウォッチをぬるく続ける中で、彼女は自分にとって好ましくない事実も知った。
国王は戦争をしたことがある。強引な政策のせいで難民を出したこともある。ブータンのマジョリティは、仏教の教えを重視し殺生を嫌うあまり、チベットと同じく家畜の屠殺を特殊階級に押しつけている。
GNHとは、おそらく国をまとめる方便と、対外宣伝を兼ねた、ただの政策である。


それでも恋がやむことはなかった。




飛ぶように年月は過ぎた。
彼女は恥じらいを忘れた中年になった。
いまこれを書いている私、通称アナンである。
もうあの絵のわけを笑顔で尋ねられる。夜這いの風習の真偽についても尋ねられるであろう。

1年半ほど両膝を故障していた。
中高年がよくかかる変形性膝関節炎であるが、四十路の割に治りが遅いと、医者は首をかしげていた。
私には線維筋痛症や、その他の持病があるので、完治する見込みはないように思えた。
よしや将来車いす生活になったとて、先進国になら、行けないこともないだろう。しかしブータンは低開発国、そして山国である。

歩けるうちに行かねばならない。最初で最後のブータン旅行になるか。ちょっと悲愴な覚悟を決めた。

ものものしい金属入り膝サポーター


「歴史的な円高」が背中を押した。円高は貧乏旅行者の天使である。
1週間ほど滞在できそうだ。

加えて、かつて雑誌で見た極彩色の祭──パロ・ツェチュ祭は、もしも見たいなら、半年以上前に申し込まないと、すぐ一杯になってしまうと知った。これは慌てる。

そこで出発予定の8か月以上も前に、ブータンの旅行会社を探して申し込んだ。

のちに若き現国王がご成婚とあいなり、夫婦揃って来日し、被災地を訪問などして、日本に空前のブータンブームが巻き起こるとは、誰ぞ知る・・・。
あっちこっちのテレビ局がブータンを取り上げた。
一昨年までは「ブータン」と口にすると、「何それどこの町?」と返されたり、その語感のほのかなおかしさにプッと噴かれたものであるが、いまや私の周りでブータンを知らないのは、ウチの近所のauの店員さんぐらいになった。

Long Live !

猪○と秋○に似ているという説も一部にはあったが美男美女のロイヤルカップルだ。
GNHという明確な方向性。
環境に配慮した、地球に優しい国。
国民の97%が「自分は幸せ」と思い、みんなニコニコしているらしい、「幸せの国」。
(ともすればイメージが独り歩きしがちであるが、)国王夫妻が日本人のブータン観に及ぼしたよい影響は計り知れない。

★現国王のスピーチ全文(ゆかしメディア) http://media.yucasee.jp/posts/index/9605


私は「ブータン行くの?いいねぇ」とうらやましがられながら、旅の準備を進めることになった。
だが、アナンの旅行歴においてかつてないほどのゴタゴタわやわやが、出発前に待ち受けていた。

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