2012/04/30

神の跳躍


そして「ラクシャ・マンチャム(閻魔大王の舞)」。
1時間半にわたる劇で、最も人気のある演目だという。
“死後の心得”を説いたチベットの『死者の書』がもとになっている。

“おお死者よ。怖がってはいけない。光の方へと進まなければならない・・・”


角の間に黄色い布をつけた牛面の閻魔の使い、ラクシャ・ランゴが躍り出た。



地獄の裁判官にふさわしい重いステップを踏み、一気に跳躍する。


回転しながら舞い降りて、再び跳躍する。



喇叭を吹き鳴らす者たちが現れ、楽器が次第に増えてゆく。
大太鼓、小太鼓、鐘、長大なチベットホルン。
さまざまな使いたちが軽やかに登場する。鳥、熊、豚、猿、獅子、蛇。かれらにはそれぞれ意味があるのである。

そして私は超人的な跳躍を目にした。


後ろから見ると黄色いカタマリにしか見えない。

空中で激しく伸縮するこの技には、人を惹きつける謎めいた力があった。
踊りの姿を借りた何かの呪術でもあろうか。輪になって一人一人が回り、輪自体も回る、いくつもの輪が全体を回る・・・その構造にも呪的な意味があるように思う。

つんざくような音楽。色彩の旋舞。くらくらする光と影。
旅行者は次第に自我を忘れ、自らもまたトランス状態にのぼりつめてゆく。


死者の生前の行いの善悪を審判する白い神と黒い悪魔に導かれ、巨大な主役が僧侶たちによってかつぎ出される。
閻魔大王だ。


僧侶たちは「ホーウ、ホウ」と奇声をあげながら、閻魔大王を持ち運び、広場の四隅で回転させる。そして閻魔は玉座に鎮座する。




と、いいところで昼飯の時間・・・。


適当にお昼へ行く人々。



古の舞

ブータンに寝不足で到着したその日、パロ・ツェチュ祭へと繰り出した。

ツェチュはグル・リンポチェ─「至宝の師」─にちなんだ祭である。数々のチャム(仮面舞踏)が見どころだ。
グル・リンポチェは別名パドマ・サンバヴァといい、8世紀にインドから、「虎の背にまたがり山々を飛び越えて」ヒマラヤ地方にやってきた。チベット仏教ニンマ派の開祖として、ブータンではブッダに次ぐ聖者とされている。

ツェチュは「月の十日」を意味する。グル・リンポチェは12の偉業を毎月10日にあらわした。そこでツェチュ祭は月に一度、旧暦の10日に、ブータンのそこここで催される。うち4月のパロのツェチュが、国王が来ることもあるブータン最大の祭である。
この日は全5日間の祭の日程の4日目にあたった。

パロ・ゾン。写真じゃわからないけど相当大きい。

ゾンとは地方政庁と寺を合わせた建物で、一種の城塞といえるだろうか。パロのゾンは元々修行場だったのが、焼失して1907年にゾンに建て替えられた。映画『リトル・ブッダ』のロケにも使われた、趣のある場所だ。

手前の屋根つきの木造の橋を渡って坂道を徒歩で上るべきなのだが、運転手ウゲン氏がほど近い場所まで車で送ってくれた。交通整理の警官は、私の2重巻きサポーターと杖を目にすると快く車を通した。ゲデン氏は気をきかせて、チャムの舞い手の登場口のそばといういい席を確保した。そこだけぽっかりと空いていて、どうやら私のために誰かが席を譲ってくれたものとみえた。
ブータンの人は親切だな。
ありがとう。

会場であるゾンの中庭に、民族衣装で着飾った善男善女が大集合していた。

「今年も盛況じゃのう」。

3千人ほどはいただろうか。見る間に5千人ほどにふくれあがった。
パロの人口は1万5千人。ブータン全土では約70万人。5千人の集まりはおおごとであることがわかる。(日本の人口にあてはめると85万人ぐらいだ。どんな騒ぎやねん。)

アナンのよきジンクスが発生した。
「旅先で祭のおいしい場面に出会う」。
バリ島では私の好きな神様・弁天に奉納するバリ舞踊を、たまたま泊まった宿の女将が寺院で踊って(踊り子さんだった)、私は僧侶から祝福を受けた。インドでは大きな弁天祭に出くわした。
パロ・ツェチュでは、日程の都合であきらめていた「四頭の牡鹿の舞」を、奇跡的に見ることができた。

おそらく仏教が伝わる以前の自然信仰の姿をとどめた、シャーマニスティックな踊りである。


グル・リンポチェは、悪い風神を調伏した後、風神の乗り物だった牡鹿に乗った。


パーーン、パーーン、パーーン、・・・
パーーン、パパパパパパパ、パーン、・・・

楽器は8小節の緩慢なシンバルのみ。
7小節目の変則的な、微妙な遅れが、ワルツの2拍目のように踏み込んで、次への期待を高める。
音は観衆を包み込み、私を揺るがせて突き抜ける。



舞い手は僧侶たち。
ゆるりゆるりと旋回する。
仮面をかぶって鹿の精霊を身にまとい、トランス状態に達しているかのようだ。

雲間から陽がさし、一気に山上世界の暑さが襲ってきた。
人々は光をよけながら見入っている。
空の近さが尋常ではない。宇宙の闇を映した深い青だ。




幕間には一般市民による民俗舞踊が演じられる。
澄んで単調な、どこかものがなしい民謡。

若い男女の舞。



もも家の土地はこんなです


農家の様子を知りたい方のための画像である。

もも家の地所。起伏が多い。右が山で左が谷。

家の裏にて。ダルシンは寺の有無に関わらず農村のあちこちにある。信仰は生活の一部。

庭。野犬が普通にいる。

ぶもお。

牛小屋から望むりんご園。遠くに何やらピカピカした家が。農村風景も変わりつつあるのだろう。

昼間のドツォ炊き&牛のごはん調理小屋。

牛のごはんか・・・立派な設備だから人間のごはんも作れそう。

鶏小屋。雄鶏君がぴょこん。

肥料置き場。針葉樹の葉を山にして肥料を作る。無農薬農家かな?

完全手作業というわけではないようだ。


畑。豆や麦など作る。

道の向こうに棚田。

もも家の驚き(3)



2日目、祭りを見に行ったものの、疲労がたたって体調を崩した。
胃が痛い。頭痛もする。体が重力5Gになったぐらい重い。風邪か高山病かわからなかった。(パロの標高は2300m。)
驚きの多いステイであったが、早々に帰ってきて寝込んで昼食も食べられない私を見たもも家の人々も、驚いたことであろう。

アマが私を気遣って枕元に置いてくれたミルクティーと不思議なお菓子。
お菓子は米粉をふくらませたもので、薄い塩味。


アパがワイングラスのような形の土器に何かの葉を入れ、燃して煙をたて、私のフトンの上でそれを回しながら、何事か唱えていった。

後で聞いたら「人を病気にする悪い精霊を追い出すおまじない」だった。
仏教国といえども古い精霊信仰が残っているのだ。
日本には神道がある。東南アジアには精霊をまつる祠がある。アジア人のおおらかさと精神世界の奥行きを垣間見た思いがした。

祭用にかっこよく盛装した7歳のツェリン君。きみ、通訳うまいぞー。

にゃあ。

ゲデン氏が言うには、アパもアマも本当に心配していたらしい。
もも家の皆様、すみませんでした。お気遣いは忘れません。
そして素敵な2泊をありがとうございました。m(_ _)m
特にアマ。貴女のおだやかさと優しさに、私はどんなに慰められたことでしょう。私をそっと見つめてほほ笑んでいた。リビングで数珠をたぐりながらマントラを唱えていた姿には、古き良き信心を見出しました。


もも家の驚き(2)


記事の分量大杉と言われるのではないかと思っていたら、やはり言われた。w
ので最新投稿を小分けにします。


風呂のあとはリビングで夕飯。
家族とともに食べるのかと思ったら、家族はもっと後だそうで。もも家の流儀なのか、ブータンの民泊が全部そうなのかはわからない。
特に家族と交流もないまま、ゲデン氏と一緒に静かに食べ始めた。


左からじゃがいもと唐辛子の炒め物、赤米、唐辛子と牛肉の煮物、穀類のスープ。



口にして7秒後に、頭が爆発した。

からいッ

味も何もわからない。とにかくからいッ!!


ブータン料理は世界一辛いと言われている。
唐辛子を野菜扱い、おかず扱いするのである。

数年前にテレビで「ブータンの女子高生のお弁当」とかいうのをやっていた。女子高生が弁当箱を開けると、半分が米、半分が真っ赤な唐辛子だった。
聞きしにまさる爆裂料理だ。
ドツォで暖まったのと、びっくりしたのと、唐辛子の刺激とで、アナン汗だくだく。

ゲデン氏は平気な顔をして大盛りをおかわりしていた。

アパやアマがしきりに「あなたもおかわりなさい」と身振りですすめてくるが、申し訳ないことに少ししか食べられなかった。自家製アラ(蒸留酒)もすすめられたが、私は酒が飲めない。残念。

ここでブータンの風習の話をば。
ブータンは何事にもゆるいようでいて、その実礼儀作法には厳しい。民族衣装の着付け方、目上の人に対する礼、日常のいろいろな場面に作法がある。少なくとも西ブータンでは。
食事やお茶やおやつを3回ぐらいすすめてくる。それが礼儀なのだ。すすめられた方は1回目で飛びついてはいけない。
京のぶぶ漬けみたいだ。
飲み物をどんどん注ごうとするのを「もう結構です」と断るには、手で器をふさぐ。

「ありがとうございます」は「カディンチェラ」。
あまりリビングに長居すると家族が食事できないと思い、カディンチェラと何度も言って、早めに部屋に引き上げた。


人類にとって重要なトイレ問題について。
農家のトイレは家から離れたところにある。灯がなかったりするので夜はライト必須。

そしてこの辺りは野犬が多いという理由で、なんとトイレのたびに誰かがつきそってきた。
ゲデン氏とか娘さんとかおチビさんとか。
野犬は昼間見るとどうということもないが、部屋に引き上げてから、外で何匹もの「ウガーッ、ガウガウガウ!」という喧嘩の声がしたので驚いた。
ブータンにも狂犬病は存在するので注意。


便器はしゃがみ式である。
私は日本で和式トイレが使えないほど膝が悪いゆえ、前もってしゃがむ練習をしていった。
しかし濡れて滑る足場でうまくしゃがめず、筆舌に尽くしがたい格好で用を足した。
ホテルのトイレは洋式で楽だったけど。

用を足した後は水桶から水をくんで流す。
紙はごみ箱へ。詰まるので流してはいけない。昔は東南~南アジア同様、手でお尻を洗っていた。



静かな夜を過ごした。
風の音、木々のざわめき、虫の声。
犬の大騒ぎを除けば、安らかな夜だった。

あ、物音は農家でもホテルでも筒抜けなので、音に過敏な人は耳栓も必須ね。


翌朝からは、私に配慮して辛さ控え目の食事が出された。作るのはおもにアマや娘さんのようだった。

右上から時計回りにエマ・ダツィ、赤米、スジャ、オムレツ。

上から時計周りに白米、カブの煮物、キクラゲと春雨のサラダ、唐辛子と牛肉の煮物。

エマ・ダツィはブータンの代表料理ともいえる、青唐辛子のチーズ煮込みである。
やっぱり唐辛子はどうしても外せないらしい。
ゲデン氏用には別に赤唐辛子のてんこ盛りが用意されていた。
味付けは塩とちょっぴりの山椒。素朴な田舎料理を味わえてよかった。
特にカブの煮物は気に入って、何度もおかわりした。


もも家の驚き(1)


もも家2階のおおざっぱすぎる見取り図



もも家の一家は、その時々によって普通に暮らしていたり、私を(敬意のこもった仕方で)無視したり、熱心にもてなしてくれたりする、マイペースな人々であった。
気がついたことがある。全員堂々としている。
目が生気に輝いている。
普段の暮らしを恥ずかしがって隠したりしない。
視線が合うと、目をそらさずにニッコリする。
子どもを叱るときには客の前でも遠慮なく叱る。

もも家に限らず、ガイド&運転手さんも、西ブータンの行った先々で出会ったブータン人も、みんな堂々としていた。

娘さんと赤ちゃん。

さすが国技がアーチェリーの国!ちっちゃな頃から遊ぶんだね。


「幸福の国」。国民の97%が「自分は幸せ」と考えるという稀有な国。
私は先に書いた通り、GNHという概念にははなからあまり期待していなかった。
名君として名高い前王が絶対君主制をしいていた時代に考案された政策だ。なかなか「私は不幸です」とは言えまい。

しかし幸福か不幸かはさておき、西ブータン人はマイペースで、堂々なのであった。
中身が充実しているという感じがした。
「人間がここにおる」という感じがした。
人間の存在感が希薄な日本から来た者には、それは驚くべきことに映った。
心の芯がしっかりしているのであろう。心の充実があるとは充分に幸せなことではないか。

そしてもも家は互いのつながりが濃い、幸せそうな家庭だった。

後で書くつもりだが、ブータン人の幸福観は、日本人とはだいぶ違うようである。



さて1泊目の夕方、アパはドツォ(石風呂)を用意してくれていた。(ドツォを体験したい場合はやはり事前に旅行会社にリクエストするほうがいい。手間がかかる風呂だからだ。)

ドツォ&洗濯小屋。



水を満たした浅い木のバスタブがある。一部が木の板で仕切られている。
人の顔ほどもある大きな石をいくつも焚火にくべて熱する。
石が赤く焼けてきたら、でっかい石ばさみでつかんで、バスタブの仕切られた部分に放り込む。
じゅわー、ぼぼぼぼぼ。水が瞬時にして熱湯に変わる。
余熱で全体の水が温まるという仕組みである。


またボケちゃったけど内部。右手前のがドツォ。



外をアパとゲデン氏と坊やたちがうろうろしているのに、ドアが閉まらないのには困った。驚くほど大ざっぱな作りの小屋である。恥じらいを忘れた中年女ではあるが、垂れたおっぱいや「6か月です」みたいなお腹はできれば見られたくない。

どうにか半分ほど閉めたが、今度は真っ暗で手探り状態。
やはりヘッドランプがなくなったのは痛かった。
「ライトはありませんか」と聞いたら、私は懐中電灯のつもりで言ったのだが、

いきなりアパが電線をひっぱってきて電球を灯した。
これにも驚いた。
お手数おかけしました・・・。

湯はむちゃくちゃ熱かった。
外から引かれたホースで水を足す。
そうっと入って、そうっと座りこむ。
浅くて下半身しか浸かれないけど、


きんもちいい~~~!!


ドツォ超おすすめ!!
木の香りと、石のしゅうしゅう鳴る音に包まれて、自然な遠赤外線の効果もあって(たぶん)、非常に癒される。

ドツォ用石炊き場。ちなみに小さなドアの向こうは「牛のごはん」を作る調理場。


手間がかかりすぎる風呂だから、ブータン人は毎日入ることはしないのだそうだ。
(普段はシャワーを浴びたり、濡らした布で体をふくらしい。)
ゲデン氏が石の番をしてくれた。隣の石炊き場で待機していて、ぬるくなると石を足しに来る。昔の日本の「湯加減はいかが?」「んー、薪をもうちょっと」のような、ゆったりした時間だ。
十何歳も年下(30歳)とはいえ、男性がそばにいて会話しながら風呂に入るとは、おつな体験である。彼がドツォ小屋に入ってくるときにはバスタオルをひっかぶって対応した。



2012/04/27

もも家

「ブータンにおけるソレが見たいです」という望みが、いきなり果たされた。

よく見たら裏側にCHINGCHINGと書かれていた。


車のバックミラーに普通にぶら下がっているではないか。
アハハとごまかし笑いをしつつ、激写。
運転手のウゲン氏がからかいぎみに「これ好き?」と聞いてきた。好きともなんとも言えず(言いようがない)、「む・・・」とまたごまかしておいた。
答えはおおかたわかっているけれど、高校生時代に抱いた「なぜソレなの?」という疑問を、笑顔でぶつけてみた。
ガイドのゲデン氏は真顔で、「グッドラックという意味があります」と語った。

私「日本にも同じような信仰があります」
ゲデン氏「はい、そうですね」 (←知ってた)
私「日本でも同じ意味です」
ゲデン氏「同じですか・・・」 (他にも意味はあるが、はしょる)
私「いくつかの神社で似た物体を売っています」
ウゲン氏「アナンさんは買って車につけないの?」
私「もし私がそうしたら、警官が来て、“えー失礼ですがマダム、なぜでしょうか”と尋ねるでしょう」
両氏「(驚いて)日本ではいけないことなんですね」

いけないかどうかは知らない。どなたか試してみてください。

それにしても冗談好きなウゲン氏ならわかるが、真面目なゲデン氏まで「ち○ち○」という日本語を知っていて連発するのがおかしかった。

「あのぅ、あなた方には夜這いの経験がおありで?」
という質問を、まだ会ったばかりだからと飲み込んで、とりあえず宿泊予定の民家へ荷物を置きにいった。






ブータンで民家に泊まりたいなら、事前に旅行会社に申し込む必要がある。だいたい旅行会社の人の親戚か知人の家になるようだ。ふらっと通りかかった家に泊めてくださいと頼んでも受け入れられないだろう。おそらく文化を守るための決まりなのだ。


その家はパロ郊外の丘の中腹にあった。味のある素敵なおうちだった。
パロ地方の平均的な農家だと思う。総じて大きな家が多い。

木のベランダが気持ちいい。

50坪ぐらいありそうだったがなお増築中。
建材は木、日干し煉瓦、煉瓦。

農家はもともと1階が家畜小屋で、2階が人間用。2階には外階段からベランダを経て出入りする。
しかしいまは衛生上の理由で、1階に家畜を飼ってはいけないという決まりがあるそうだ。ブータンには決まりがたくさんある。
この家でも、家畜は庭の奥の家畜小屋にいて、1階は子ども夫婦の住まいになっていた。

ベランダで靴を脱いで上がる。戸を開けるとリビングである。

ボケちゃったけどリビング。広い。食事はここでとる。

私が2泊することになったかわいい客用の部屋。
孫たちが描いたのであろうディズニーキャラや俳優(?)の絵が飾られていた。


アパから歓迎のお菓子をいただいた。
トウモロコシチップスと煎り米。飲み物はスジャ(バター茶)。


なんという家なのかを聞かなかった。というのも、ブータン人には苗字がないので、「鈴木さんち」とか呼べないのである。たとえばゲデン氏はゲデン・チョペリというのだが、ファーストネームのゲデンが個人の名前、セカンドネームは僧侶からもらう。
それに私はすぐさまアパ(お父さん)、アマ(お母さん)という単語を覚え、単に親しみをこめて「アパ・アマの家」と呼んでいた。
屋号などはあるのだろうか。写真を送りたいのだが、聞かなかったのが悔やまれる。



部屋の窓から花咲く桃の木が望まれたので、とりあえず「もも家」と呼ぼう。

もも家のアマは珊瑚石のネックレスが似合う優雅で優しい女性。アパは立派な口ひげをたくわえた風格ある紳士。
「あのぅ、こちらのお宅では夜這いの経験が・・・」
などとはとても聞けない雰囲気であった。

子どもたち孫たちを抱える大家族だった。アパ・アマには子どもが5人いて、うち2人が伴侶と小さな孫たちとともに1階に住んでいる。近所にいる親戚も加えて、総勢21人。


お孫さん。絵が好きな5歳の坊や、コマ回しが上手な7歳の坊や。右端がアマ。



さて、どんなおつきあいになるだろうかと思っていた。
ホームステイという形になるから、相当濃い人間関係を予想していた。内気な私には(これでも内気なのだ!)少々しんどいことになるかもしれないと。しかし、いわば“政府公認”の家庭でもあろうから、客慣れしているかもしれないと考えたりもした。英語ペラペラで判で押したような会話しかなかったりして・・・。

思案は外れ、慣れているような、慣れていないような接し方の、2日間であった。
客に遠慮しておチビさんたちをリビングから追い出すかと思えば、そのままにして私と遊ばせてくれたり。テレビなど見つつ私を放置しているかと思えば、一生懸命面倒をみてくれたり。
英語を話せるのは7歳になる小学生の坊やだけだった。

滞在中は距離の取り方にとまどったが、いま思い返すと私にとっては絶妙な距離感だったかもしれない。
“民宿と一般家庭を足して2で割った”とでもいおうか。


なぜか黒や灰色のニンジャっぽいマスクが流行っていた。私もマスクしてパチリ。
左端はおっとりした女のお孫さん。

もも家を拠点にパロ・ツェチュ祭や寺院を見物した。
帰ってくるといつもアパかアマがお茶をいれてくれて疲れが癒された。


ところで、ブータンは母系社会で女が家を継ぐと私は思っていたし、本にも書いてあった。
大昔の日本のように、娘が家の権利を持ち、男が通い、住みついて婿になると。
(私は女がえらい社会が好きである。)

それで、もも家の“ご主人”はアマだと思ったのだが・・・。
ゲデン氏に訂正された。
女が家を継ぐのは東ブータン。ここ西ブータンでは、家はだいたい男のもの。

聞いてみなければわからないものだ。

では“ご主人”はアパということになるか。
あるいは“一家の主”という考え方そのものがないのか。西ブータンの男性は外で働くが、家事もよくする。アパが私の食事を出してくれたりした。農作業はもちろん男女を問わず行う。娘さんは畑を耕していた。
それにしても、文化人類学などちょっとかじったことがある割には、長年どえらい間違いをしていたものである。恥ずかしい。